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歴史の沿革
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史前・開墾
澎湖列島は、中国と台湾の間に位置し、先天的な立地性と港湾という特殊な優位条件により、昔から軍事的な要衝及び重要な移民中継地となり、台湾でも古くから発展した地域です。
史前
考古学者の考証によると、澎湖には5,000年前の粗縄紋土器を代表する新石器文化が存在し、少なくとも5,000年前に先人たちの生活の跡があることを証明しました。
開墾
連雅堂の台湾通史には「澎湖に人が住んだのは、秦朝と漢朝の時代、或いは越が楚に滅ぼされ、越の遺民が閩に移住して海上に流浪、または澎湖に移り住んだ」と記載されています。宋朝時代の「澎湖」という名前は野史及び地方誌に正式に見られ、史書上にも漢民族が澎湖に住んだことが南宋から始まったことを明記しています。南宋理宗宝慶元年(西暦1225年)宗室の趙汝适が著作した「諸蕃志」内に「泉州にある海島を彭湖といい、晉江県に隸属する」を明確に指摘しています。
設置
元代に巡検司が設置 元世祖の元18年(西暦1281年)11月に澎湖に正式に巡検司が置かれ、福建同安に隸属し、澎湖が中国の版図に組み込まれたのは、現台湾より403年も早い時代でした。明太祖の洪武21年(西暦1388年)に、東南沿海において長年に渡り倭寇が猛威を振るい、朝廷が討伐しても抑えが利かなかったため、澎湖が倭寇の巣窟となり、よって武将湯和の要求により、島民を澎湖から転出させる政策を行い、巡検司が廃止され、島民たちを泉州、漳州に転入させました。
倭寇騒乱の時期
明朝時代に巡検司が廃止された後、澎湖は更に海賊や倭寇が沿海を略奪する本拠地となり、益々荒れ果てました。嘉靖末期以降倭寇の林道乾、林鳳、曾一本らは澎湖を基地として沿海を騒がせていました。天啓六年から永暦12年(西暦1626-1658年)までの鄭芝龍も澎湖を占拠しました。明朝の朝廷は、倭寇を討伐するため、何度も澎湖まで追い詰めましたが、嘉靖42年(西暦1563年)兪大猷が澎海を占拠する海賊と倭寇を打ち破り、分遣隊を澎湖に駐屯させました。朝廷は兪大猷の建白書により澎湖巡検司を再度設置させましたが、兪大猷が辞職してから巡検司も廃止されました。明朝の洪武21年に巡検司が廃止されてから永暦15年の鄭成功が澎湖(西暦1388~1661年)を回収するまで、251年経った3世紀近く倭寇の騒乱により、澎湖は荒れ地に戻ってしまいました。
オランダ人の澎湖占拠
明朝に巡検司が廃止されてから3世紀近い倭寇の騒乱時期に、オランダ人にも侵入する機会を与えてしまいました。明朝の万暦32年(西暦1604年)7月12日オランダ人のウエマーラン(查不到相對日文,故音譯)が大船三隻を引きつれ澎湖に侵入してきました。当時澎湖には守備兵力はなく、抵抗を受けることなく上陸に成功し、半軍半商の貿易活動を娘媽宮(現在の馬公)で行っていました。
万暦32年(西暦1604年)10月25日に明の朝廷が沈有容を浯嶼都司として澎湖に派遣し、ウエマーランを強制退去させたことが、石碑に記録され、天后宮内に現存しています。万暦37年(西暦1609年)オランダ商船が澎湖に来航してきたところ、ちょうど澎湖の守備兵が駐屯していた時期のため、上陸できず去っていきました。明朝熹宗天啓2年(西暦1622年)7月1日早朝オランダ将軍ライエルセンが船舶12隻、兵士1024名をを率いて媽宮港に侵入してきました。当時澎湖の守備兵がすでに撤退していたため、風櫃尾に上陸してきました。

数千人の住民が抵抗しましたが、3人余り殺害され、オランダ軍が澎湖を占拠した後、長期に守備するため、住民に石を運ばせて紅毛城を築かせた以外に、風櫃尾、金亀頭、時裡、四角嶼、漁翁島に砲台を築くことで海路を守り、その後オランダ軍艦が海洋を出入し、南北海運している商売人の影響が著しいものでした。そして天啓4年(西暦1624年)福建巡撫(官職名)である南居易から澎湖オランダ人を攻め立てる建白書が承認され、高文律ら12人を捕まえ、オランダを駆除して大勝した後、南居易が暗澳(今文澳)に天啓城を建設し、游撃(官職名)1名、把総(官職名)2名、統兵(官職名)3000名を置き、砲台を築いて守備しました。

明鄭氏の澎湖守備
明の崇禎17年(西暦1644年)呉三桂が山海関の扉を開いて、清軍を北京に導き、明朝が清朝に滅ぼされました。しかし鄭成功は東南沿海で清軍に応対し、清朝に抗戦して復国に努めていました。永暦8年(西暦1654年)鄭成功が金門で勢力範囲を固め、宗室を奉りました。永暦15年(西暦1661年)に台湾に東征することが決定され、2月3日に軍艦数百隻、兵士25,000名を引きつれ金門料羅湾から出発し、4日早朝に澎湖八罩島を見ながら、夕方に媽宮に着いて駐屯しました。6日鄭成功は海山を祭り、付近の列島を巡視しました。また8日早朝澎湖から出発して鹿耳門に東征し、12月3日にオランダ人に勝利し、承天府の一府及び天興、万年の二県を設置し、澎湖に安撫司を設置し、大軍を駐屯させて台湾への出入り口としました。

永暦16年(西暦1662年)5月8日に鄭成功が亡くなると、鄭経が王位を継承し、東都を東寧に変更しました。

永暦18年(西暦1664年)3月7日に鄭経は銅山から東寧に後退して守りを固めるため澎湖に来ました。永暦19年(西暦1665年)2月鄭経は施琅が澎湖へ侵攻するニュースを入手したため、部下と対策を協議して防御を配置しました。施琅の澎湖侵攻が強風に逢って失敗したため、内大臣に転任して福建水師提督を解任されました。

しかし永暦35年(西暦1681年)鄭経が逝去したため、鄭克塽が王位を継承したところ、また施琅が廈門で軍隊を訓練し水師提督を率いて、5月に台湾を討伐しました。10月に鄭克塽は、20,000人余りの兵士、戦船200隻余りを劉国軒に率いさせて澎湖を守ろうとしましたが、永暦37年(西暦1683年)6月14日施琅が軍隊を率いて銅山から出発し、15日に花嶼に到着して澎湖を攻撃し、22日劉国軒が敗戦して台湾に逃げ戻りました。7月16日鄭克塽が正式に投降したため、8月13日施琅が台湾に上陸したことで、澎湖の戦役が敗戦となり、明朝がついに滅亡することになりました。鄭氏による澎湖の守備は、永暦15年から永暦37年(西暦1661-1683年)まで計23年でした。

清王朝が澎湖を統治
康熙23年(西暦1684年)清が正式に台湾の澎湖を版図に組み込み、守備兵を置いて守備することとなり、元朝の制度に習い澎湖に巡検司を設置して台湾県に付属させました。軍隊の分隊を澎湖に駐屯させ、兵士2,000名を配下とする水軍副将1名を設置し、その下に游撃(官職名)、都司(官職名)、守備千把総(官職名)等を設置し、武備のための役所が林立しました。

雍正元年(西暦1723年)には澎湖巡検司がを統治できなくなったため、庁に昇格させようと協議し、雍正5年(西暦1727年)に澎湖巡検を海防同知(官職名、海岸守備隊司令官に相当)に昇格させ、守備兵を追加設置しました。雍正6年(西暦1728年)に台廈兵備道(官職名)を台湾道(官職名)に変更し、澎湖海防糧捕庁も設置し、通判(官職名)が置かれました。澎湖が版図として組み込まれたのは、台湾より遥かに早期で、つまり元朝が澎湖を版図に組み込んでから清が正式に台湾を版図に組み込むまで403年も早く組み込まれたのでした。

清が澎湖を212年間統治してきましたが、救済や援助・見舞、文事と砲台だけで、その他重要な民生上発展させた建設がありませんでした。比較的重要な史実事件には、乾隆31年(西暦1766年)の通判であった胡建偉が文石書院の創設を提案し、翌年の夏に文石書院が落成しました。乾隆32年(西暦1767年)に胡建偉が「澎湖紀略」を編集して澎湖初の完全な地方誌となりました。

乾隆43年(西暦1778年)に西嶼外に灯台の建設を着工し、翌年完工し、台湾灯台の起源となり、廈門から台湾へ航行する船舶はこれを目標としました。

道光9年通判であった蒋鏞が「澎湖紀略続編」を完成させました。光緒9年(西暦1883年)通判であった李嘉棠は、命令により砲台を西嶼の内外塹に築きました。光緒11年(西暦1885年)2月13日にフランス将軍のクールベが軍艦を率いて澎湖を侵攻したところ、清が敗戦して、孤拔が澎湖に上陸しました。当時疫病が大流行していましたので、孤拔が病死して媽宮城に葬られました。3月に清とフランスの講和交渉が行われ、6月24日にフランス軍が撤退しました。光緒13年(西暦1887年)海壇鎮総兵の呉宏洛が澎湖水軍総兵に着任して澎湖を接収管理し、澎湖城(媽宮城)の建設を監督しました。光緒20年(西暦1894年)中日戦争が開始され、21年(西暦1895年)3月20日に日本伊東中将が連合艦隊を率いて澎湖将軍澳に到着し、23日に良文港(龍門)内の正角から上陸し、24日に拱北砲台を攻め落とし、更に媽宮城を追い詰め、25日には澎湖を占領しました。

日本統治時期
光緒21年(西暦1895年)4月17日に李鴻章と伊藤博文が馬関条約を締結し、正式に台湾澎湖を日本に割譲したことで、日本に51年間統治されました。光緒21年(西暦1895年)3月25日に日本が澎湖を占領した後、海軍少将の田中綱常が「澎湖列島行政庁長官」に任命されて軍政を敷き、6月28日に台湾全土に三県一庁を置き、澎湖を「澎湖島庁」と称しました。光緒22年(西暦1896年)5月に軍政が廃止されました。光緒24年(西暦1898年)6月に「澎湖庁」に改名して台湾総督府に直属させました。光緒29年(西暦1903年)に澎湖要塞司令部を設置し、測天島の海軍軍区を整理して殖民地の防衛事務を固めました。民国9年(西暦1920年)「澎湖庁」を「澎湖郡」に改名し、高雄州に隷属させるよう変更しました。民国12年(西暦1923年)日皇太子裕仁親王が台湾を訪れると共に澎湖を特別視察しました。民国15年(西暦1926年)に澎湖を庁に復活させ、台湾総督府に隷属されました。

日本統治時代に日本が澎湖で行った主要建設は、光緒28年(西暦1902年)に北島灯台を目斗嶼に建設しました。民国2年(西暦1913年)に電灯株式会社を設立させ、澎湖の電化の基礎を開き、民国2~9年(西暦1913~1920年)に郵政交通を建設して日系企業に澎湖で各種貿易の経営を奨励しました。民国15年(西暦1926年)に「澎湖水産会」を創設しました。民国16年(西暦1927年)に馬公湖西に公共バスを実施して、地方自治を組織し、6月に馬公水道事業所を設置し、民国19年(西暦1930年)に水道事業所が竣工して送水を開始しました。民国26年(西暦1937年)に彌栄、万歳橋(中正、永安橋)の改築を完成し、本島から白沙島への連絡に車両で通行させることができました。民国30年(西暦1941年)に児童初等教育の公学を国民学校に変更しました。民国32年(西暦1943年)に馬公高等女子学校等も設立しました。

光復により澎湖県を設置
民国34年(西暦1945年)8月15日に日本が無条件降伏を宣言し、12月25日に澎湖が「澎湖県」に変更されました。35年(西暦1946年)1月22日に正式に澎湖県庁が設立し、政府から任命された初代県知事が傅緯武でした。民国39年(西暦1950年)に初回議会(民選)が成立し、鄭大洽が議長に当選しました。民国40年(西暦1951年)1月7日に李玉林が初代民選県知事に当選しました。